関西大学社会学部教授 永井良和
 
 子どものころに住んでいた街を、何十年か後に訪ねたとしよう。遠く感じた道のりが意外と短い距離であったり、背が高いと思いこんでいた建物がけっこうちゃちだったりする。その感覚の落差は、懐かしいという思いを起こさせるとともに、人に、自分の成長や老いを印象づけるだろう。
 時間をあけて同じ場所に身をおくと、私たちはめまいのような錯覚にとらわれ、それはそれで楽しい経験となる。しかし、毎日のように利用する通り慣れた道では、こういう感慨は起こりにくい。それは、街が退屈だからではなく、私たちのほうが鈍感になっているからだ。もっとも、日ごとに移り変わる街のようすをいちいち気にとめていては、遅刻もするだろうし、勉強や仕事もはかどるまい。後ろから来る人に、つきとばされてしまうかもしれない。日常的に街に関心をもつというのは存外に難しい課題だから、ここはやはり、「街を歩こう」とわざわざ思い立ち、そして「街を見てやろう」と意識したうえで街を歩きたい。
 学生たちといっしょに街なかをぶらぶらと歩く習慣をつくって、もう13年ほどになろうか。見学とか巡検とかいった、堅苦しいものではない。集合の時間と場所を決め、だいたいのコースだけを心積もりして歩き始める。目に飛びこんできたものを確かめるために、コースを外れる。ちらりと見えた看板や煙突が気になって、建物の裏側に回りこむ。店先の売り物に惹かれ、何人かが遅れはじめる。足が痛くなり、通りかかった喫茶店で小休止。そして、当初の計画とはまったくちがった方角の駅前で、酒を酌み交わし、話をして帰途につく。昼間、街で出会った人たちとの会話や、飲み屋での若者たちとの交流は、私のささやかな楽しみである。
 その楽しさは、歩くことだけを目的として、ほかの目的をもたないことに由来する。コースを外れても気にせず、ふだんなら曲がらない角を折れ、歩いたことのない路地に分け入るからこそ、楽しさが倍加する。学生を連れて由緒ある施設を「見学」をするときもあるのだが、そういう教育的目的があると、なりゆきまかせの街歩きのような楽しさは得られない。だから、できるだけ偶然に身をゆだねて歩くようにする。
 とはいえ、大阪の街でこういうことを10年以上もつづけていると、以前に歩いたことのある街角にたまたま出くわすことがある。そして、子ども時代を過ごした街に戻ったような、例の錯覚に襲われる。世の中の、大きな動きや流れを思い知るのは、そういう時だ。私じしんの目や身体が、この街の変化を測定する尺度なのである。いいかげんなようで、実はこの「ものさし」をつかうと、けっこうきちんと世の中を測ることができる。
 世の中を測る「ものさし」は、1本にかぎったものではない。学生たちの「ものさし」と自分の「ものさし」がちがうからこそ、いっしょに歩いていて楽しい発見ができるということにつながる。また、自分の「ものさし」も加齢によって変わっていく。だから、久しぶりに出かけた場所での発見や驚きが生まれる。
 寒い風が吹きつける日がつづくけれども、親子で、あるいは世代のちがう人といっしょに散歩をしてみてはいかがだろうか。無目的に、ゆっくりと。自分がおもしろいと思うものと、子どもがおもしろがるものはちがう。そのことを知るだけでも、歩く甲斐はあろう。自分が気にも留めないことに、若い世代が敏感に反応する。それを傍目に見ておくことが、世間の未来を予測させる。
 一人歩きの散歩も粋なものだが、ぜひここは、歳の離れた人と交わってみてほしい。そうすれば、世の中の流れや、この街のこれからについて、思いをめぐらすことができるにちがいない。
 
街歩きの記録は、以下のページでご覧いただけます。
http://homepage3.nifty.com/ynagai/machiaruki.htm